本堂建立記録

   
 平成26年3月に、東日本大震災による屋根裏床下等の未調査部分の被害もふまえ、ご本堂全体の現状調査を実施いたしました。国の発表に基づき東海大震災・東南海・南海連動型地震に備え、また瓦も寿命をむかえておりますので、当初は修繕改修及び耐震施工を行う予定でございました。大手建設会社二社に調査を依頼したところ、被災部分も多数発見されましたが、それどころか耐震施工を施しても十分ではなく、その後五十年から六十年で建替えを余儀なくされる可能性があり、今後予想される大地震での倒壊の恐れさえも指摘される結果が出されました。ご本尊様をお守り頂くためにも、また当山にご法要・参拝・墓参等のためにご来寺される檀信徒の皆様の安全の確保のためにも、役員会に於いて厳粛に審議した結果、ご本堂を建替えることと決定いたしました。
 
 
フォーム
 
佛具搬入
5月3日に落成慶讃大法要を挙行したため、予定通り更新できませんでしたが、引き続き「本堂建立記録」として、更新して行きたいと思います。
本堂の内部が完成し、1月25日から26日にかけて佛具が一斉に搬入されました。
本堂の中を丁寧に養生して頂き、佛具が次々と運び込まれて行きました。宮殿・前机・密壇・塔婆立ては50年以上前に京都の田中伊雅佛具店により納められた大変良い佛具でしたので、翠雲堂社で修理・修復をして頂き、漆は全て京都で塗り上げて頂きました。一度漆と金珀を全て剥し、木地作りから丁寧に仕上げますので、驚くほど綺麗に新品同様に甦りました。まだ修復の必要がない佛具は、翠雲堂社の倉庫で預かって頂いておりました。佛具の修復の目安は50年以上だそうです。護摩壇一式は、全て新規に購入致しましたので、佛具の数も多数に渡りました。又、建築中に使用される佛具や備品関係は、当山の倉庫に保管しておりました。今後、落慶式などの大きな法要の時に、脇の間の佛具を全て片付ける必要があるため、思い切って新規購入致しました。
佛具の設置は、天井から吊るされる人天蓋、幢幡、護摩天蓋の取り付け作業から始まりました。護摩天蓋はダクトと接続され排煙できるシステムに成っているため、多少時間がかかりました。そして、ほとんどの佛具は金箔、漆塗りが施されており、その金箔が剥がれないように丁寧に設置されて行きました。
2日がかりで佛具を搬入設置して行き、営業担当の宮川さんと何度も位置の微調整を行いながら荘厳が成されて行きました。そして、構想通りだんだんと本堂らしく成って行きました。六間四面の本堂ですが、中村先生に内陣が広くとれるように設計して頂きましたので。真言宗の正式な荘厳の形式をとる事が出来ました。そのおかげで、真言宗らしい整然とした素晴らしい内陣が再現できたのではないかと思います。翠雲堂社は大手佛具店に成りますので、仕事が丁寧なのは基より、経験も豊富な上に、機動力があり安心してお願いすることが出来ました。本堂建築の規模により佛具店の選定も住職が責任を持って慎重に行わないと失敗もあり得ると感じ、ほっと致しました。いよいよ最後に、ご本尊が遷座、安置され、完成となりました。
 
須弥壇
ご本堂新築工事も大詰めを迎えたため、進行状況をお届けするホームページの更新がなかなか出来ませんでしたが、お陰様を持ちましてご本堂はほぼ完成し、欄間四枚に大日如来尊像一軀、佛具数点及び外構工事を残すのみとなりました。5月3日の落慶式を迎えるまで、順次更新して行きたいと思います。
ご本尊様を安置する場所、【須弥壇】(しゅみだん)が組まれました。
以前の旧本堂は本式の須弥壇ではなく、略式の檀に宮殿を置きその中にご本尊様を安置しておりました。本来、須弥壇はご本堂の一部であり、大工仕事だったそうです。大手の翠雲堂さんも本は社寺建設で須弥壇作りから荘厳佛具会社として立ち上がっているそうです。(現在も建築を手掛けております)翠雲堂さんやその他の佛具屋さんも素晴らしい須弥壇を手掛けておりますが、当山の須弥壇は中村先生がご本堂と一体構造で設計して下さり、その丸柱から須弥壇の一部が突き出しているような特別なデザインになっております。当山のご本堂を建設している助政建設も須弥壇作りには定評が有り、数多く手がけております。その助政建設の大工さんが、石川県の珠洲市の工場で丹精込めて人の背丈ほどもある大きな須弥壇を作成して下さいました。当山のご本堂の外陣の天井は船底天井になっており、通常の天井よりはるかに高くなっております。内陣の天井も折り上げ天井になっておりますが、住職の要望でその外陣よりさらに内陣の天井がさらに高くなっております。中村先生が一段高くなるように当初の図面に変更を加えて下さり、内陣の枡組を二段にしその格式をより高めて下さいました。その結果、木造の六間四面のご本堂とは思えないほどの内陣天井の高さを得ることが出来ました。旧本堂落慶時に奉納された当山の宮殿は、京都の老舗荘厳佛具の田中伊雅のものであり、大変立派なためその宮殿の屋根が旧本堂の天井まで届いていました。しかし新しい須弥壇と内陣はこの宮殿を基に設計されており、そのため人の背丈ほどもある大変立派な須弥壇を納めて頂く事が出来ました。
 
                            
 これは須弥壇作成にあたり、いつもの大工さんに加え、須弥壇専門の方がみえて寸法や、高さ、丸柱の形状を等の実寸法を測っているところです。
 
その後、内装工事が終わる頃に須弥壇を搬入し組み立て作業が行われました。
   
 
須弥壇は何段もの枠上の部材に分かれており、その一つ一つを職人さんが慎重にに重ねていき組み立てられていきました。
       
 
立派な須弥壇が組み上がりました。その上に御本尊様が安置される宮殿が乗せられます。以前の本堂に比べると、御本尊様が安置される位置がかなり高い位置になります。
 その後9月下旬に、以前にご紹介しました400年の歴史を持つ浅草の土屋金物さんから連絡がありました。この工房で手掛けていただいた飾り金物は、中村先生のオリジナルの物です。先生の図案を職人さんが手作りで打ち上げ、丁寧に漆で金箔を貼った、大変凝っていて特別なものに仕上がりました。これをご本堂で丁寧に須弥壇に施していきました。須弥壇のみでなく内陣左右の脇の間の壇や内陣の両大師の壇にも施されていきご本堂がビックリするほど豪華で艶やかに彩られました。たくさんの方々のご協力で、ご本堂の外観に負けない空間が完成するのが益々期待され所で御座います。
 
   
                               
 
山号額
お寺には山号と院号、寺号の三つの名前があります。もともとお寺は山中や山の頂に建立され、その所在地の山の名が山号のはじまりと言われています。
当山の山号は「延命山えんめいざん」院号は「福寿院ふくじゅいん」寺号は「長久寺ちょうきゅうじ」です。もちろん、これは【ご本尊延命地蔵菩薩】様に由来して、その時代の人々の願いが込められて付けられております。当山は400年以上前に開山されており、当時の方々が少しでも災害や事故、疾(やまい)飢餓、戦(いくさ)より離れ遠ざかり、幸福で長生きでき、その時代が長く続くように願いを込めて名付けられた事が、ここから読み取ることができます。
本堂建替え事業を始めるにあたり、山号額を含めほとんどの仏具を修理・修復をいたしました。当山の山号額の書は、当山と大変縁が深い千住の慈眼寺様の先先代、了昭和尚が手掛けたものです。
写真左は修復前のご本堂の山号額です。翠雲堂さんに修復を依頼し、洗いをかけ、漆(うるし)と金箔で化粧をし直して見事によみがえりました。
現代の社会や世界情勢から、当山開山時代の人々の願いをかんがみても、人々の願いは未だに変わっていないように思えます。寺は、そうした人々の統一した願いを少しでも多くの人に捧げて頂き、その願いが発信されて叶えられて行くための場所なのです。
 
外装工事
いよいよご本堂の外装が出来上がって参りました。写真左は【半鐘 はんしょう】といい、一般的には火事などの異変を知らせるために火の見櫓(ひのみやぐら)の上などに取り付けられた、昔の小ぶりな釣鐘の事です。お寺の半鐘は法要が始まる時の合図に使用され、集会の鐘 三通三下(さんつうさんげ)や上堂の鐘 一通三下(いっつうさんげ)を鳴らすためのものです。
旧ご本堂の時は、盗難されないようにお堂の中につるしてありましたが、本来は外につるすものですので、新しいご本堂では外につるしました。高さや場所を決めるのも一苦労で、色々と打合せを行いこの位置に決まりました。
 
写真中は本堂北側から、西側にかけて張った【簓子下見張り壁 ささらこしたみはりかべ】といい、全て漆喰(しっくい)の白壁だと、だんだんと汚れが目立ってきますので、壁の下半分を板壁にしました。木材で作られる板壁は、節のない目の詰まった美しい材料を使う事で、ご本堂の全体のフォルムをより引き立たせてくれます。
 
写真右は 軒下の垂木(たるき)です。もともとは構造的に屋根を支えていましたが、だんだんと内部の桔木(はねぎ)で支える構造に進化して行き、佛教建築の美しさを表現する代表的な装飾として発展して行きました。設計する方のセンスが現れる部分で、その太さや間隔を独自に決めることで、設計士の先生の表現力と大工さんの施工技術の見せどころとなっております。この垂木の間隔を決めるのが非常に難しく、この部分を手を抜いて広すぎたり狭すぎたりすると、まさに間の向けた間隔になってしまいます。中村先生ご設計の垂木は素晴らしく、下から見上げるとその間隔が絶妙で、伝統的な工法を守り細かく二重になっており、広がりのある美しい曲線を描いているのがご覧いただけます。
 
また、本堂の隅には【風鐸 ふうたく】がつり下げております。
風鐸の由来は平安・鎌倉時代に、強い風は流行病や魔を運んで来ると考えられれおり、その魔が建物の中に入るのを防ぐ魔除けとして軒につり下げるようになったと言われています。黒い風鐸がご本堂の屋根をより引き立たせてくれます。
 
佛教建築には一つ一つに意味が有り、それらを少しでも知ることで、より一層鑑賞する趣が深まって参ります。ご興味のある方は、是非、当山にご来寺して頂きご参拝頂ければ幸いに存じます。
 
天井の紹介
本堂の天井が美しく出来上がりました。本堂の中は「外陣」(げじん)檀信徒の皆様が法要の時に入る空間と、ご本尊が安置されている「内陣」(ないじん)とその左右にある脇の間の四つに分かれます。
 外陣の天井は【垂木表わし船底天井・小組入り格縁天井
木が格子状に組まれている「格縁天井」(ごうぶちてんじょう)の中にさらに細かい格子が組み込まれている「子組み入り格縁天井」(こぐみいりごうぶちてんじょう」と写真左の部材を使い組み上げられて行きます。写真中は垂木が本堂の中から壁の外に伸びているデザインで、まるで木造の船底のような「垂木表わし船底天井」となっております。
 内陣の天井は【折り上げ小組入り格縁天井】
写真右は、サイドから支輪と言って天井の外周が弓のような曲線形状の折り上げ(おりあげ)構造を使って、その天井を支える斗組(ますぐみ)も二段になり、外陣の天井よりさらに高くした【折り上げ小組入り格縁天井】となっております。
「垂木表わし船底天井」は屋根裏をあえて見せる事により、より美しい天井を造りあげています。もともとは構造的に必要な造形でしたが、時代が経つにつれ基本構造が進化して装飾としての造形美と変化して来たようです。奈良、平安、鎌倉時代までは見ることが出来ましたが、大変コストもかかったため省略されて行きました。江戸時代になるとほとんどが「平天井」(ひらてんじょう)と言って天井裏を全く見せない構造、低い位置に天井が張られてしまい、空間も狭くなってしまいました。現代にこれらの天井を再現するのは大変贅沢な事でありますが、より広い空間を造り上げることが出来、また目の詰まった天然の節のない材料を使う事により、文化財としても大変貴重で価値がある建造物になっております。
これらの構造を取り入れる事により、六間四面の本堂とは思えない広大な空間を造り上げ、当山にご来寺した方々が、当時の武家や氏族が味わった、木造建築の本当の美しさを少しでも体験していただければ幸いに存じます。合掌
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