久しぶりのブログ更新です。だんだんと日が短くなり、朝晩と寒くなって来ましたが皆様いかがお過ごしでしょうか?
お寺のお仕事は色々とたくさんありますが、毎日のルーティンとしては、朝夕の門や戸の開け閉めにはじまり、住職の朝の「勤行」、諸佛に仏飯とお水をお供えする「お供え物」、と「山内の清掃」等があります。その中から、今回はお供えの仕方についてご紹介します。
お供えの仏飯はできるだけ炊き立てのものをお供えすることが理想で、炊き立てのご飯の真ん中の上澄みの辺りをシャモジで1回ですくい、お仏器に盛り付けます。昔は、ご飯を自分のお茶椀に1回で盛り付けると「1回で盛ると縁起が悪い」と、叱られ2回で盛り付けました。これは仏様に敬意を示し最高の物をお供えする気持ちから来ており、私たち衆生とは区別し、縁起をかついだからです。例えば「北枕」と言って、お釈迦様の涅槃の様子(涅槃像)にならい、亡くなった方が悟りを開き成仏できるように、同じように北方に頭を向けて泣かせ供養しました。そこから亡くなった方と区別して私たちは北枕では寝ない習慣が生まれ、やはり「北枕で寝ると縁起が悪い」と叱られましたました。実はお釈迦様は生前いつも建物の外の菩提樹の木陰で横たわっており、これはインドの強い太陽の日差しを避けるためにそうされていたと言う、いたって理にかなった事でした。仏様にお供えをする事は、お仏壇の「ご本尊様」と共に仏様になられたご先祖様(故人様)と言う亡くなられた方にも供えるため、同じようにする事を縁起をかついで嫌ったためです。仏様にしているから「いけない」のではなく、お亡くなりになった方と、生きている私たちを区別し、少しでも長生きが出来るように考えて生まれた、仏教の教えではなく在家の習慣なのです。実はこのような習慣は日本にはたくさんあります。もともとの意味を考えると色々と昔の方々の考えや気持ちが見えて来ます。
最近はパン食やダイエットのため朝食を抜かれる方と様々で、毎朝ご飯を炊くとは限らなくなりました。そして夕方にお供え物を下げてみるとご飯がカチカチになっています。本来、このカチカチになったご飯は水で溶き、外に出て撒く事によって、餓鬼(浮かばれない霊)に施し供養するとされております。しかし都内では条例もあり、ハトやカラスが集まって来てしまい形式程度で毎日たくさん撒くわけにもいきません。
お檀家様からお供え物のことで質問されることがよくありますが、その中で、
「一人暮らしで毎日ご飯を炊くのは大変だからまとめて炊いて、すぐに冷凍して自分で食べる時にはその都度電子レンジで温めて食べていますが、温めたご飯を仏様にお供えしてもよろしいのでしょうか?」という質問がありました。
確かに毎日お供えするために炊くのはは大変でしょうし、亡き故人様と分け合って頂きたいという方もいらっしゃるでしょう。一人暮らしのお年寄りならなおさらです。それにカチカチになったご飯をそのまま捨ててしまうのも、もったいない気がしますよね。電子レンジで温めたご飯をお供えしてはいけないという事はありませんが、古くからお供えされている「洗米」をお薦めしております。
寺によっても様々ですが、当山は大きな法要やお施餓鬼の時にお供えする餓鬼飯は、突き仏具という円柱状に形作った炊きたてのご飯をお供えし、下げたお供えのご飯(下供)は、夕方少量を水に溶き外の餓鬼に施します。普段、朝炊かない時は、数日分洗ってザルに上げ乾かした「洗米」もしくは、そのまま炊ける無洗米をお供えしています。本山や修行中に供えるお供えもこの「洗米」が多く使用され、お供えされています。この「洗米」は、朝お供えした物を夕方に下げて、夕飯に炊くお米と一緒に混ぜて炊きありがたく頂いています。そうする事により、仏様に対する功徳を頂く事になり、ご利益がありお米も無駄になりません。(子供の頃は、お米は一粒も無駄にしてはいけないと教わり、食後に米粒がお茶椀に残っていると叱られたものです。)
夕方は浄水(じょうすい=清らかでけがれのない清浄な水)と言って、新しいお水をお供えします。仏様がけがれない様に常に浄水をお供えし、一日に2度取り替え供養します。朝、仏飯とお茶を供える場合は必ず浄水を別にお供えします。
当山では、ご本尊「延命地蔵菩薩」様をはじめ、両大師、西脇の間「大日如来」様、東脇の間「不動明王」様に対し仏飯と浄水、位牌壇のお位牌に浄水とたくさんの場所にお供えします。朝夕と同じ器だとどれを取り替えたか分からなくなる事があるので、夕方用は器の色を変えてお供しております。
お供え物とは、お仏壇のご本尊様やご先祖様という仏様に対し、出来るだけ最高の物を供える事により、自らの信仰と供養の気持ちを捧げ供えるものなので、電子レンジで温めたからいけないと言うことはなく、何よりもその仏様に対し、自分が毎日続けることが出来る精一杯の供養を、毎日かかさずに自らの健康を心がけ続けることが大切なのです。